2019年の9月、まだまだ残暑の残る日に参拝致しました。インターネットで検索すると金藏院のいう名のお寺はたくさんありますが、こちらのお寺は横浜市神奈川区にあり、玉川八十八ヶ所霊場三番札所のお寺になります。
京浜急行・仲木戸駅(現・京浜急行・京急東神奈川駅)の地上改札から徒歩2分と至極便利なところにあります。お寺への道案内の看板も出ているので分かりやすいです。
金蔵院の情報
金蔵院の基本情報
山号 | 神鏡山 |
院号 | 金蔵院 |
寺号 | 東曼荼羅寺 |
宗派 | 真言宗智山派 |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
真言 | おんあみりたていぜいからうん |
住所 | 横浜市神奈川区東神奈川町2-4-3 |
HP | なし |
備考 | 【寺格】 【関連施設】金藏院会館 【玉川八十八ヶ所霊場】3番札所 |
金蔵院へのアクセス
金蔵院は、最寄り駅から歩いてすぐです。とっても便利な立地です。
● JR京浜東北線使用の場合 | 所要時間 |
JR京浜東北線東神奈川駅より徒歩3分。 信号に引っかかると4分くらい。 | 左同 |
● 京浜急行の場合 | |
京浜急行仲木戸駅地上階改札より徒歩2分。 信号に引っかかると3分くらい。 | 左同 |
● 駐車場の利用 | |
お寺には駐車場は無く、すぐ近くにコインパーキングがいくつかあります。 |
金蔵院の御朱印
私が参拝した時はご住職が不在であった為、奥様と思われる方から「書置きで申し訳ありません」と謝られながら頂きました。こちらこそ申し訳ありません。謝らないでくださいという気持ちになりました。感謝感謝です。また、参拝しに参りたいです。
上の写真の左側が金蔵院の御朱印になります。
金蔵院の縁起
【新編武蔵記稿】による縁起
金蔵院
西側なり、海道へ三間五尺出はりたり新義眞言宗山城國醍醐三寶院末なり、神鏡山東曼陀羅寺と號す、寺領十石の御朱印は慶長4年に賜はりし所なり、醍醐三寳院の始祖勝覺僧正の開基なりと云、本尊阿彌陀作しれず、二尺餘の立像なり、本堂十間に七間巽向なり、
(途中省略)
寶藏坊、門を入て右にあり、わづかなる寮なり、古は然るべき子院なりしといへり、
熊野三社 本社一間に九尺、拜殿二間半に四間、いづれも巽向なり、古は靑木町の中程なる艮の方の丘にありしを、いつの頃か當へ寺へ移せり、例祭は年々六月十五日より同き十八日までなり、
新編武蔵風土記稿より引用
◎醍醐三宝院(さんぼういん)とは
京都市伏見区にある醍醐寺の本坊的存在で、真言宗醍醐派の大本山になります。豊臣秀吉が花見をした場所としても有名。
◎熊野神社
金蔵院山門から道を挟んだ南側に熊野神社があります。昔、金蔵院が別當を務める等、深い関係にありました。
【多摩川遍路-玉川八十八ヶ所霊場案内】による縁起
このお寺は寛治元年(一〇八七)堀河天皇の命により勝覚法印開創の勅願寺である。
治承四年(一一八〇)源頼朝が挙兵し、三浦氏、千葉氏等の坂東武者の助力を得て鎌倉幕府を樹立したが、その時、熊野神社に戦勝を祈願し、金蔵院の住職が秘法を厳修したと伝えられている。
徳川家康も小田原の北條氏直が甲斐へ五万の兵を送ったとの報に、八千の兵を率いて出陣するに当り、源頼朝の故事にならい金蔵院住職が秘法を修して戦勝を祈願している。家康は慶長十五年(一六一〇)に神奈川御殿が建てられる迄金蔵院を宿泊所とし、境内の紅梅を愛でて出立の折に必ず一枝を手折って持ち帰ったという。以来毎年一月に住職が家康手折りの紅梅の一枝をたずさえ江戸城に上り、歴代将軍に献上する慣わしとなった。
多摩川遍路―玉川八十八ケ所霊場案内.新田明江著.1989より引用
すぐ近くになる熊野神社の別当を務めていたこともあるようです。
その他
「衆生」とは生きとし生けるもの全てです。人間だけではありません。動物や植物、生命あるもの全てを「衆生」と呼び、衆生はことごとく「仏性」を持っているということです。「仏性」とは仏になる可能性、ここでは仏のいのちと考えましょうすべての生命の生命には仏のいのちが、宿っていて平等なのだ、というのが仏教の生命観です。
境内案内板より引用
空海は師の恵果から、生きとし生けるものすべてと国家全体のために、密教を役立てよとさとされ、帰国している。空海の行動は終生、師の言葉を実践することについやされた。
諸説 日本仏教13宗派がわかる本より引用
境内の案内板を見て知りましたが、仏教、特に空海が持ち帰った真言密教は、「衆生」つまり人間だけでなく動物・植物といった命もそれぞれがすべて平等な命なんだよということを伝えているんですね。さらに言うと、京都の東寺で行われる「後七日御修法」は秘儀中の秘儀とされていますが、天皇をはじめ、生きとし生けるものすべての幸せのために執り行われるものらしいんです。
資料からいえること
以上の資料から読み取れるのは
- 京都の醍醐寺三宝院の末寺であった。
- 1087年、堀河天皇の命令により勝覚法印が開創した。
- 家康は西暦1610年に神奈川御殿が建てられるまで、金蔵院を宿泊所としていた 。
- 住職が家康手折りの紅梅の一枝をたずさえ江戸城に上り、歴代将軍に献上する慣わしとなった。
- 真言密教の教えでは、生きとし生けるものすべて平等である。
境内写真
寄り道情報
仲木戸駅(現・京急東神奈川駅)付近から神奈川駅付近まで「神奈川宿歴史の道」というのが整備されていて、その界隈には金蔵院・熊野神社等々の数々の歴史のある神社仏閣が多くあります。また、神奈川宿の歴史を物語る資料館もあるので、寄り道してはいかがでしょうか。
ともログ後記
毎回、参拝する寺社のことはざっくり調べてから行くのですが、今回、訪ねた金藏院の周りが宿場町であったことや「神奈川宿歴史の町」として整備されていたことは出かけてみて初めて知りました。
ご近所にはお寺も多く、幕末の時代には海外の方々の宿舎になっていたりと「へ~。そうなんだ。」と色々面白く感じることが多くありました。再度、この神奈川宿についても調べて、再度、この場所を訪れたいと思います。