平間寺(川崎大師)

川崎大師大本堂 玉川八十八ヶ所霊場
川崎大師大本堂

 玉川八十八ヶ所霊場一番札所というとあまりピンとこない方が多いと思います。川崎大師というと聞いたことがあるかもしれませんね。通称「川崎大師」は厄除けで有名ですが、毎年の初詣参拝客は成田山と2位3位を争う程、参拝客が多いお寺ですが、正月以外の平日の午前中は参拝客は少ないので、ゆったりと参拝することができます。私も初詣で冬に何回か訪れていますが、真夏の平日(2019年夏)に参拝したのは初めてです。今回は玉川八十八ヶ所巡りとして出かけて参りました。

川崎大師の情報

川崎大師大山門
川崎大師大山門

「川崎大師」とよく言われますが、これはあくまでの通称であり愛称。本当は平間寺(へいげんじ)というお寺の名前です。

山号金剛山
院号金乗院
寺号平間寺
宗派真言宗智山派
ご本尊厄除弘法大師
ご宝号南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
最寄り駅1.京浜急行大師線川崎大師駅より徒歩10分
2.京浜急行大師線東門前駅より徒歩9分
3.川23系統大師バス停より徒歩9分
住所川崎市川崎区大師町4-48
HP川崎大師
備考【寺格】真言宗智山派大本山
【関連施設】東京別院 薬研堀不動院
【関連施設】京都別院 笠原寺
【玉川八十八ヶ所霊場】一番札所
【その他】故・元横綱北の湖のお墓がある

玉川八十八ヶ所霊場二番札所・真観寺についてはこちらをご覧ください。

川崎大師の御朱印についてはこちらをご覧ください。

川崎大師近くの中国式庭園「瀋秀園」についてはこちらをご覧ください。

川崎大師の縁起

境内掲示板による縁起

平間寺の文化財

平間寺は、真言宗智山派の大本山で、金剛山金乗院平間寺と称し、厄除弘法大師または川崎大師として、昔から庶民の厚い信仰をあつめています。特に江戸時代中頃からは、徳川将軍家でも厄除けに参詣していました。

創建は、平安時代・大治三年(一一二八)、この地で漁撈を業としていた平間兼乗が、夢まくらに高僧のお告げを受けて海中より弘法大師の御像を引きあげ、それを高野山の尊兼上人が開基供養したのにはじまるといわれています。

(以下省略)

川崎市教育委員会境内掲示板より引用

【新編武蔵風土記稿】による縁起

弘法大師堂

村の艮の方稻荷新田の境にあり、御朱印六石の地を附せらる、大師は木の坐像にして長二尺二寸。大師の自ら作る所の像なりと云、縁起に此像は大冶年中平間某と云もの、常にすなとることを業として此浦に住り、もと尾張國の生れにて、彼國にても年ごろ漁猟漁獵(ぎょりょう)を業とせしに、ある夜不思儀の夢をみし後、大師の像をかの海濱に得たり、故に自から負ひて我家に歸り、そのまゝ一宇を建立し平間寺と號せりと、寺傳に云、ざれど同郡下平間村の稱名寺、古は眞言宗なりしが、僧如信の代に至り改宗して親鸞の徒となり、かの弟子に從ひ夫より一向宗の寺となれり、先代より持傳ふる所の大師の像は、改宗の後多磨川へ流せしを、幸に漁人拾ひあげて今の地へ草堂をたて、かのありしところの村名を取て平間寺と唱へしと稱名寺に云傳へり、二説かく齟齬して定めがたく、ことに寺僧の言所浮たることのみなれば、暫く記し置のみ、本堂三間に七間門南向なり、

(途中省略)

別當平間寺

大師堂に向て右にあり、金剛山金乘院と號す、當寺古は荏原郡高畑村寳幢院の末寺なりしが、文化二年願により離末して京醍醐三寶院の直末になれり、開山は尊賢と云、康冶二年四月二十一日寂す、古き御朱印もありしにや、今は傳へず、たゞ慶安元年十月二十四日大猷院殿より御寄附の御朱印を藏せり、其文に弘法大師堂領稻荷明神領として、當村の内六石の地先規の如く御寄附のこと、及寺中諸役免除せらるゝ由を載す、當御代に至り寛政八年十月二十七日始て當寺へ成せられ、其後文化十年九月二十七日成せられしときは御膳所なり、

新編武蔵風土記稿より引用
ともログ的 新編武蔵風土記のざっくり訳

〇弘法大師堂

 橘樹郡(たちばなぐん)川中島村の稲荷新田村の境目近くに石高六石の土地の所有を認められていた。大師像は木製の坐像で大きさ66.7cm。弘法大師様自らか作った像といわれている。縁起によれば、この像は大冶年中(西暦1126年~1131年)に平間なにがしという者が、常に魚や貝をとることを生業としてこの浦に住んでいた。元々は尾張国(愛知県西部)の生まれで、その国でも漁を生業としていたらしい。ある夜に不思議な夢をみた後、大師の像をその海辺で発見し、それを家に持ち帰り祀った。そしてそのまま一棟の建物を建立し平間寺と号したと寺に伝わる。しかし一方で以下のような説がある。同じ橘樹郡下平間村の稱名寺が元々真言宗寺院だったが、如信という僧の代に改宗し親鸞の信徒となり、浄土真宗のお寺となった。先代より所有していた大師の像は、改修の後に多摩川へ流してしまったものを、幸いにも漁師が拾いあげて現在の場所に草堂を建て、その昔の村名を取って平間寺と称したと称名寺に伝わっている。どちらの説が正説と定められず、まして寺僧たちが言っていることであるので、暫くは書き記すのみとする。本堂は5.45mに12.7mで南向きである。

〇別當平間寺

大師堂に向かって右側にあり、金剛山金浄院と号す。当寺は、元々荏原郡高畑村(現・東京都大田区西六郷)宝幢院の末寺であったが、文化二年(西暦1805年)に願い出て離末し京都の醍醐寺三宝院の直末になった。開山は尊賢といい、康冶二年四月二十一日(1143年4月21日)に亡くなった。古い朱印があるのか今は伝わっていない。ただ慶安元年十月二十四日(1648年10月24日)に徳川家光より寄付の朱印が残っている。その文に弘法大師堂領稲荷明神領として、当村の内六石の地を先例のようにご寄付された。諸々の公用の労働も免除されたことが載っている。徳川家斉にいたっては寛政八年十月二十七日(1796年10月17日)から当寺に参詣なられ、以後、文化十年九月二十七日(1813年9月27日)参詣されるときは休憩場所となっていた。

以上、誤訳は平にご容赦。

まめ知識

稱名寺(しょうみょうじ・川崎市幸区下平間)は、弘海(空海の弟子)が草庵を建立したことに始まる。大悲山普門寺と称し真言宗のお寺だったが、十三代忍峯阿闍梨は本願寺二世如信の弟子となり法名如海を賜り、宗旨を浄土真宗に改宗し、それ以降、平間山稱名寺となった。本願寺東西の派閥分裂時に、東派(東本願寺末寺)となり現在に至っている。

まめ知識

宝幢院(ほうどういん・大田区)は、鎌倉時代に光明寺(大田区)の行観によって開山された。光明寺は真言宗の寺院であったが、寛喜年間に浄土宗に改宗した。行観は弘法大師の寺が消滅することを惜しみ、宝幢院を建立し真言宗の僧侶に譲ったという。

【多摩川遍路-玉川八十八ヶ所霊場案内】による縁起

略縁起によれば、今を去る八百六十余年前、平間兼乗という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ諸国を流浪し、川崎の地に住み、漁猟を営んでいた。身の不運を思い四十二歳の厄年にあたり日夜厄除の祈願をしていたある夜、一人の高僧が夢枕に立ち「我むかし唐にありしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり、いまだ有縁の人を得ず。今、汝速かに網し、これを供養し諸人に及ぼさば汝が災厄変じて福徳となり諸願も満足すべし」と告げられた。兼乗は海に出て光り輝いている塢所に網を投じて一体の大師尊像を引き揚げた。兼乗この像を浄め小庵をむすんで朝夕香花を捧げ供養したのがはじまりである。大治三年(一二一八)尊賢、兼乗と共に開山。

多摩川遍路―玉川八十八ケ所霊場案内.新田明江著.1989より引用

資料からいえること

以上の資料から読み取れるのは

  1. 平間兼乗という人物により「お大師様」の木像が浜で拾い上げられたらしい。
  2. それを祀ったのが川崎大師の始まりである。
  3. 宝幢院の末寺であったが、1805年に京都の醍醐寺三宝院の直末になった。
  4. 尊賢・兼乗が創建時のキーパーソン。
  5. 徳川家といえば増上寺・寛永寺が菩提寺として有名であるが、徳川家斉は厄除に川崎大師も信仰していた。
  6. 昔は、お寺が改宗することは多くあった。

 現在、川崎の海は埋め立てられ日本有数の工業地帯となっていますが、昔の川崎の浜では、ハマグリがよく採れたと聞いたことがあります。川崎大師の参道にもハマグリ料理屋さんがあります。貝類がよく採れたということはおそらく遠浅の浜が続いていたのだと思います。現在の川崎市川崎区夜光の浜付近でお大師様の木像が拾い上げられることは十分考えられます。