成就院

成就院 玉川八十八ヶ所霊場
成就院本堂

成就院の情報

山号明王山
院号成就院
寺号聖無動寺
宗派真言宗智山派
ご本尊大聖不動明王
ご真言のうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしやた
そわたやうんたらたかんまん
最寄り駅1.JR南武支線小田栄駅
2.渡田中学入口(バス・川27系統)
住所川崎市川崎区渡田3-8-1
HPなし
備考【玉川八十八ヶ所霊場】四番札所

玉川八十八ヶ所霊場三番札所・金蔵院についてはこちらをご覧ください。

玉川八十八ヶ所霊場五番札所・玉川大師についてはこちらをご覧ください。

成就院の縁起

境内掲示板による縁起

成就院略縁起

當山は、京都智積院を総本山とする真言宗智山派に属し、「明王院聖無動寺成就院」と号し、新篇武蔵風土記、神霊新田大明神古略縁起及び新田明神古略縁起、江戸名所圖絵にも記載される古刹です。

 もともと阿彌陀如来(芝増上寺安養院より勧請)をご本尊としておまつりし、弘法大師の御手彫りである現在のご本尊大日大聖不動明王像と制(口辺に乇)迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の二童子は不動堂におまつりしておりました。

 その霊験はあらたかで、殊に鎌倉入りを前にした入間川に陣を張る新田義貞公の夢枕に二童子が現れ「鎌倉退治の心あらば是より南橘郡亘田に安置し奉る不動尊に祈誓せよ」と告げられ、よって義貞公はこの靈像を深く崇信し、鎌倉入を成就されました。これより義貞公の祈念佛として崇められ古くから多くの信仰を集めておりました。

 開創は詳らかではありませんが、弘安二(一二七九)年と徳治三(一三〇八)年の板碑が境内より出土していることから鎌倉時代中期と推定され、文明年間(一四六九~)の高野山の明辯上人の開基に因み現寺号等を号し、寛永年間(一六二四~)の住職辯秀を以って中興第一世と称されました。元亀年間(一五七〇~)には小田原奉公しより寺領五石、不動尊へ三石の免田を寄進されておりましたが、慶長末年の黒印等重宝の盗難、また延亨三(一七四七)年の火災により諸堂、記録類のすべてが焼失し、その復興後も大正十二年の関東大震災で倒壊、更に昭和二十年三月に再建された大本堂を始め諸堂、庫裏等も同年四月の川崎大空襲によりすべての宝物と共に灰燼と帰しました。

 現在の本堂を始め諸堂は中興第二十三世隆性代に十万檀信徒の浄財により昭和三十六年に再建されました。また、成就院会館は中興第二十五世隆常代び建立されております。

 歴代住職は新田神社の別当を務めており、また古くから寺子屋を営み信仰の道場として地域の中心、拠り所として「浅田不動尊」と親しまれ、戦前までのご縁日には遠近より多くの参詣者で大変な賑わいであったそうです。

境内掲示板より引用
まめ知識

◎智積院(ちしゃくいん)・・・真言宗智山派の総本山で京都に所在する

  【山号】五百佛山(いおぶさん)

  【寺号】根来寺(ねごろじ)

  【住所】京都市東山区東山七条東瓦町964番地

〇成就院

村の西にあり、明王山聖無動寺と號す、新義眞言宗荏原郡高畑村寳幢院末、當寺は元龜年中小田原の北條家より寺領五石、不動へ三石の免田を寄附せられしと云、その文書等もありしが、慶長年中住僧辨山の代にに舊記等奪はれしにより其後證とすべき物なく、願ふべき頼りなければ自ら衰へしよしたゞ口碑に傳へたり、又文明年中紀州高野山の僧明辨の開基の由なれど其慥なることは今より知べからず。本尊彌陀長三尺許なるを安ず。客殿七間に八間門南にむかへり。

不動堂。境内に入て左の方にあり、相傳ふ弘法大師の作にして新田左中將義貞武州入間川の邊へ出陣の時、二童子夢に入りて鎌倉退治の心あらば、これより南橘樹郡亘田の里に安置せし不動に祈誓せよとの告をかうむり、夫よりして義貞守本尊とせしと云傳ふ、立像長一尺五寸餘、堂の大さ東向にて二間半に二間なり。

觀音堂。境内にあり、如意輪觀音にして二三寸許の坐像なり。

地藏堂。門前に建り、纔の平屋なり、石の像、長六尺許天和二年と彫れり。

古碑一基。寺の背後、墓所の中にたてたり、德治三年十月日と刻せり、德治三年は則延慶元年にて花園院御卽位の年なれば、當寺を開闢せしと云、文明年中よりは百三十年前のことなり、寺につきし碑にあらざることしるべし、此墓所當寺境内の外にて別に八畝餘地なり。

新編武蔵風土記稿より引用
ともログ的 新編武蔵風土記のざっくり訳

〇成就院

 亘田村の西にあり、 明王山聖無動寺と号す。新義眞言宗(現・新義真言宗)の荏原郡高畑村(現・大田区六郷)にある寳幢院(ほうどういん)の末寺であった。当寺は元亀年間に、後北条家より寺領五石、不動へ三石の免田を寄附せられたと伝わる。その文書等は慶長年中の住僧辨山の代にコソ泥に奪われたことにより、その後証明できる物が無くなり、願うべき頼りになるものがない為、自ら衰えてしまい、口承に残った言い伝えに傳へたり、また文明年中に紀州高野山の僧明辨の開基の由となっているが今となっては知る由もない。本尊は高さ三尺(約1m)の阿弥陀如来でなるを安置。来客と応対するための御殿は七間に八間の広さで門南に向かっている。

不動堂は境内に入って左の方にあり、語り継がれた話によれば弘法大師の作で、新田貞義が入間川のほとりへ出陣の時、夢の中で二童子が「鎌倉退治の心があるのなら、これより南橘樹郡亘田の里に安置している不動に祈り誓いなさい」とのお告げがあった。夫よりして義貞守本尊とせしと伝わる。立像長一尺五寸餘、堂の大さ東向にて二間半に二間なり。

觀音堂。境内にあり、如意輪觀音にして二三寸許の坐像なり。

地藏堂。門前に建り、纔の平屋なり、石の像、長六尺許天和二年と彫れり。

古碑一基。寺の背後、墓所の中にたてたり、德治三年十月日と刻せり、德治三年は則延慶元年にて花園院御卽位の年なれば、當寺を開闢せしと云、文明年中よりは百三十年前のことなり、寺につきし碑にあらざることしるべし、此墓所當寺境内の外にて別に八畝餘地なり。

以上、途中翻訳挫折部分あり。誤訳は平にご容赦。

まめ知識

◎寳幢院(ほうどういん)

 真言宗醍醐寺の末寺・談林でしたが、現代は真言宗智山派に所属しています。

【多摩川遍路-玉川八十八ヶ所霊場案内】による縁起

 このお寺の開創は詳かでないが、弘安二年(一一七九)徳治三年(一二〇八)の板碑が出ているので鎌倉時代と推定される。本尊は弘法大師作の大聖不動明王尊と二童子であり、新田義貞の祈念仏であった。新編武蔵風土記稿、川崎史話。新田明神古略縁起にも記載されている名刹である。このお寺の住職は代々新田神社の別当も兼ねている。元亀 年中小田原の北條家より寺領五石、不動尊へ匸二石の免田を寄附せられたと云われた文書もある。延享三年(一七四六)大正十二年(一九二三)昭和二十年と多くの災害に遭いながら再建している。現在の建物は昭和三十六年に再建されたものである。

多摩川遍路―玉川八十八ケ所霊場案内.新田明江著.1989より引用

資料からいえること

以上の資料から読み取れるのは

  1. 開創は鎌倉時代の古刹である
  2. ご本尊は弘法大師が彫ったとされる大聖不動明王尊と二童子である
  3. 新田貞義が「鎌倉攻め」の途中で立ち寄って祈願した
  4. 同地区にある新田神社の別当を務めていた(新田神社は新田貞義を祀っている)
  5. 災害の度に再建された