池上本門寺

池上本門寺大堂 大田区の寺院
池上本門寺

 2020年の節分前の時期に、日蓮の入滅地であり日蓮宗の大本山である、池上本門寺に行って参りました。

 本門寺の近くにはよく来ていましたが、本門寺には初めての参拝です。本門寺の近くに海苔問屋があり、そこの海苔がとても美味し為、海苔を買いに車だったり電車だったりチョクチョクお邪魔していました。この記事をアップしている2022年には、すっかり池上の駅も綺麗に生まれ変わっていることでしょう。

本門寺の情報

山号長栄山
院号大国院
寺号本門寺
宗派日蓮宗
ご本尊釈迦如来像
最寄り駅1.東急池上線池上駅
2.都営浅草線西馬込駅
住所大田区池上1-1-1
HP池上本門寺
備考【寺格】日蓮宗大本山
【関連施設】力道山墓所

本門寺の縁起

【新編武蔵風土記稿】による縁起

本門寺 

 境内六萬七千六百坪、下池上村の南にあり、法華宗本化一宗正統の靈場なり、長榮山大國院と號す、宗祖日蓮上人の開闢(かいびゃく)にして、鎌倉番匠の棟梁、池上右衛門太夫宗仲の建立する所なり、某由來を尋ぬるに、建長年中日蓮安房國より鎌倉に赴かんとして、舟を浮かべて當郡(とうぐん)品川に着岸す、時にこの池上の地を見て、(つたへ)聞竺土跋(はつ)堤河(たいか)の景色に似たるをよみし、あらかじめ入滅の地と思ひけるとぞ、其後鎌倉にありし頃、康元年中一たび日蓮に見へて深く崇信し、頓て襢(のぎへんだよ)越となれり、文應元年上人鎌倉より當所宗仲が宅を訪ひ、此所を兼て入滅の地とせんこを約せり、文永十一年十一月、宗仲自ら本化の道場を建立せんことを欲して、其志を告しかば、日蓮これをよみして長榮山本門寺の號を興へ、且大曼荼羅を一枚圖して附属せり、此曼荼羅は當山第五世日叡上人、身延山兼職の時かの山へ移せしより、今にありと云、其後宗仲當寺造立せしは弘安四年の事なり、明る五年日蓮みづから入滅の期近きにあることをしり、九月八日身延を發して同十八日池上に來り、宗仲が家に入、あらかじめ其はかりごとを告、爰(えん)於て鎌倉中を始として遠近の弟子檀那等皆悉く本門寺に來集す、此時安國論及種々の法門をこ講説す、堂には本門の本尊久遠寛成の釋迦(しゃか)佛及び上行以下の四菩薩を安ず、この頃高足の弟子日法靈材を得て上人の坐前にして肖像を彫刻し、頭上の疵痮に至るまでいさゝかもたがはず寫しければ、上人自から曼荼羅を寫してその胎中に納め、鬚髪を焼て彩飾を加へ、是我生身の形なりと、自から開眼して同く堂上に安置せり、又弟子檀那等に告て云、三七日を過て我まさに入滅すべし、其時地神震動するを以わが死相を卜すべしと、十月三日讓状を書して、隨身佛一軀幷に安國論免状二通を日朗上人に附属し、又當寺と鎌倉比企谷妙本寺とを合せて日朗に讓れり、これにより兩寺を兼職し、後數世の間は比企ヶ谷に住せり、又かの隨身佛等の三種の重寶は、日朗入滅の後一たび紛失せしかど、後いかなる故にか京都本國寺に傳へて今にありと云、又日像上人には帝都の弘經を附屬せり、されば此人京都妙顯寺を開山せり、同十二日酉の刻今の大坊の地宗仲が宅にありて、北向安坐し明る十三日辰の刻入滅す、その後遺言に依て骨を身延山へ送る、明る六年十月に六老僧等此地に來會して日蓮の遺文をあつむその頃のころにや、宗仲宅をすてゝ本門寺を起し、いよいよ信心怠らざりしが、是も正應六年九月十三日卒せり、これよりして本門寺の修造はみな二祖日朗の功によれり、日朗かくて諸弟をひきひ、殿堂伽藍を營み文保元年に至て土木の功全く終り、輪奐頗る美をなせり、日朗はその間正應四年九月預め付弟を定む、三世日輪是なり、初日朗師の命に依て兩山を紹繼せしより、こゝに至て三十七年に及べり、これより日朗は寺窪と云地に庵室を結び讀誦經勤業してありしが、元應二年正月二十一日泊然として遷化せり、付弟日輪師の遺言によつて鎌倉松葉ヶ谷にて荼毘し、猿畠山に塔を立けり、然りしよりこのかた現住に至るまで四十三世、法燈たへず、日蓮の讓状に云、釋尊一代之深理、日蓮一朝之功徳無所殘、付屬日朗云云、日朗また日輪に付法す、且九老僧の連署に云ふ、本門寺日朗上人御遷化之後、爲其門弟法門弘通意趣守本處遺跡可爲一味同心云々、先にも云る如く開闢以來第十二世日惺のときまでも妙本寺にありて、當寺を兼職せり、

新編武蔵風土記稿より引用

【新版江戸名所図会】による縁起

長栄山本門寺

大国院だいこくゐんと号す。池上むらにあり。日蓮大士弘法の一本寺にして、三頭と称するの一員たり。(甲州身延山・総州正中山・当山、以上三頭といふ。)当寺日蓮大士終焉の古跡にて、弘安年間の開創たり。(『件両疏』云ふ、仏の出世には必ず四所ある事を明かにすと云々。又『身延山図経』に云く、高祖の応世や、生るゝ所は小湊なり。得道は清澄なり。転法輪は身延なり。入涅槃は池上なり云々。)則ち宗祖大士を以つて開山祖とす。文保元年丁巳、六老僧第二位日郎上人当寺を修造して大刹とす。こゝに於て諸門徒推して開基と称す。(日郎上人は、筑後公正法院大国阿闍梨と云ふ。姓は源、父は新羅三郎義光の子南総平賀の住人次郎盛義四世の孫平賀有国の子なり。十歳にして出家、文永八年大士に従うて竜の口の土牢に籠められ、同九年佐州に至り、弘安元年上足の第二となる。文保二年北条時宗の命を受け、日印と共に諸宗の徒と法義を論ずるに利あり。元応元年正月廿一日池上に寂す。世寿七十八。『卯花園漫録』に云ふ、玄関といふもの昔はなし。足利時代禅宗にて玄妙に入る門といふ意にて立てしなり。古へは玄関の上の廊下まで下駄草履にてあがりぬ。近く京都にて皆しかありしと、古老の人の物語なり。今池上本門寺にてかくの如くの古風のこりたり云々。)

新版江戸名所図会より引用
まめ知識

邑(むら)とは

1.人の集まり住む区域。地方の町や村。「郷邑・城邑・村邑・都邑」

2.諸侯などの領地。「采邑(さいゆう)・封邑(ほうゆう)」

デジタル大辞泉より引用

境内写真

大堂
仁王門
霊山橋
多宝塔
総門
経蔵
此経難持坂
五重塔